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第194回:名古屋城の金鯱(きんのしゃちほこ)
先日、私が経営する代々木高等学校名古屋サテライト教室の生徒達の課外授業の「名古屋城の見学とお花見」に行ってきました。
名古屋城に一度も行った事がない名古屋生まれの生徒達もおり、最近の名古屋市立小・中学校は名古屋城に遠足・社会見学に行かないのだと生粋の名古屋人の私はちょっと驚きましたが・・・・・・
1945年(昭和20年)5月14日の太平洋戦争時に名古屋空襲によって焼失し、1959年(昭和34年)に復元されてた名古屋城は、織田信長の生誕した那古野城(なごやじょう)跡であり、徳川家康が築城し金鯱が有名である為「金鯱城」・「金城」とも呼ばれております。
私の御先祖様は名古屋の中村の出で親戚縁者は殆ど名古屋市近郊に住んでおり、「尾張名古屋は城でもつ」と云われる様に、私は物心付く頃より名古屋城・金鯱(きんのしゃちほこ)は自慢であり誇りでした!
では、今回は金鯱の歴史をWikipediaよりお伝えしたいと思います。
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・焼失前の金網に覆われた金鯱
1612年(慶長17年)名古屋城天守が竣工した当時の金鯱は一対で慶長大判1940枚分、純金にし215.3kgの金が使用されたといわれている。高さは約2.74メートルあった。
しかし、鯱の鱗は、藩財政の悪化により、都合3回にわたって金板の改鋳を行って金純度を下げ続けた。そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張り、カモフラージュした。この金網は、表向きは盗難防止(後述の通り、実際に何度か盗難にあった)や鳥避けのためとされ、戦災により焼失するまで取り付けられていた。
1871年(明治4年)に政府に献納され、東京の宮内省に納められた。その後、雄鯱は国内の博覧会を巡り、雌鯱は1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会に出品された。金鯱が大天守に戻ったのは1879年(明治12年)2月である。
徳川の金鯱の中では最も長く現存していたが、1945年(昭和20年)に名古屋大空襲で焼失した。 残骸は、戦後GHQに接収され、のち大蔵省に移ったが、1967年(昭和42年)に 名古屋市に返還された。名古屋市は残骸から金を取り出し、名古屋市旗の冠頭と、金茶釜に加工して保存している。 現在の金鯱は復元されたもので、復興天守建造の時、日本国内に数 えるほどしか残っていなかった鎚金師で大阪造幣局職員の手により製造された。一対に使用された金の重量は88kgである。
・盗難事件
金鯱の鱗の盗難事件は何度も発生している。江戸時代、大凧に乗って金鯱に近づこうとした柿木金助(かきのききんすけ)の伝説がある。明治以降では3回発生し、犯人はいずれも盗んだ鱗を鋳潰し売却しようとして逮捕されている。3回目の事件のときは下賜記念事業中だったため、当時の名古屋市長が引責辞任する事態となった。
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改めて、名古屋城の金鯱の様に気高く優雅に煌き輝く「才色兼備」の女性として人生を送って行かなくてはと思いましたよ!☆